私に感謝
先日のバスタイム、ふ~っと息をつきながら、
『あぁそうだ、今日はお布団を干した上に、シーツもカバーもちょっと涼しめに変えたんだよなぁ。今日のお布団は気持ちいいぞ、うふ♪』
と、思った時に思い出した。
私、今日、気分も体も重くて、
『あ~、布団干すのおっくうだなぁ、、』
なんて思いながら干したんだよなぁ、って。
私は最近、動画にいろいろ出ている《朝のルーティン》や《夜のルーティン》を観て、ちょこちょこと真似ている。
その動画の中に出てきてて、最近始めたルーティンに、『自分にありがとうと言う』というのがあって。
動画の中で『今まで自分が生きてきた何十年も、24時間365日、ずっと動いてくれてる心臓に。また体、手も足も髪も指も皮膚も血管も臓器もすべてすべて。』と仰ってた気がする。
その通りだなぁ、自分(の体)に感謝してなかったなぁ、って思った。
そして、
すぐにお風呂の中で、私は、日中の私に、
『体が重いなぁと思いながらも、お布団を干してくれてありがと!今の気候に合わせてカバーとかも替えてくれてありがとう』
と、そう言った。
私の体は私のものなのだから、私の思う通りに動いて当たり前だよね!?
“私”は“私”なのだから、“私”が布団干したいと思えば“私”が布団を干すのは当たり前だと思う(誰かに頼むという選択肢は別として)。
でもここに、〈“私”という意識〉と〈“私”の体〉があるのだとしてみると、
〈“私”の体〉が布団を干してくれたから、〈“私”という意識〉は嬉しいし、気持ち良く寝れるし、幸せだなぁって感じられるんだよなぁ。
24時間365日動いてくれてる自分の身体に感謝というのは、こういうことだったのかも‥と、改めて思った。
普段の意識
じゃあ‥
普段は?
家族みんなのためにしてること、そうだと思ってしてること。
なのに誰も私に感謝しないじゃない!って怒ってた私。
私がしてたことは、私のためにでもあるんだよね、うん。
じゃあ私からは?
ご飯を作ってくれた〈“私”の体〉に、
買い物してくれた〈“私”の体〉に、
毎日献立に悩んでくれてる〈“私”の体〉に、
(どれだけご飯を作ることにイラついてるんだ私^^;)
〈“私”という意識〉はどれだけ気持ちを向けていただろうか?
むしろ、
〈“私”という意識〉の前で、〈“私”の体〉がしなければいけないこと、するべきことをするのは当たり前、動いて当たり前だと思ってた。
この《して当たり前》の感覚。
どこかで見覚えならぬ、感じ覚えがある気がする。。。。
私に感謝、自分で感謝
自分で、自分が何をしているのか
それは、私が得意な“またアレできてないわ〜”とか、“あ〜コレも足りてないわ〜”とか、そこじゃなくて、そんな風じゃなくて、
これまた私の得意な“私ばっかり〇〇(我慢など)してる!”“全然感謝もされへん!”みたいに思う時に、
“私”からしてもらった側に“自分自身”も立ってもらって。
そして“私”は何をしたのか?
何を頑張って、どんな気持ちでいるのか?
そんな風に見てあげたいなと思う。
とにもかくにも今日は、
《私が、私に感謝したい》ね、という話でした。
投稿者プロフィール
-
心理カウンセラーで作家の根本裕幸さんのお弟子です。
よろしくお願いします。
詳しいプロフィールはこちら。
最新の投稿
- 日記2024.07.05浮かんできた感覚と安心感
- 日記2024.06.021460日計画
- 日記2024.05.05忘れない “あなたはどう?”
- 日記2024.03.31離婚の理由