浮かんできた感覚と安心感

 

 

私は依存を嫌ってた。

自立が良くて、依存が悪いわけでも、いいも悪いもないことは、心理を学んで理屈では何となくわかってるつもりだけど‥でも。

そんな自分の感覚が少し変わってきたことを、ここに書き記しておきたい。

 

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私は依存をすごく嫌だと思っていた。

そして自分はとても依存的だと、依存して生きていると思っていた。

 

また、依存を嫌って自立的なふりをしてる自分でもあると思っていた。

 

まぁ、要はよくわからないけど、結局私は依存的で、すごく恥ずかしい人間で、恥ずかしい生き方をしていると思っていた。

 

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なぜか浮かんできた自立的感覚。

行動し、私の中の依存心を助け、守ってくれる存在、そんな感覚が湧いてきている。

 

私にとって、とても大切なマイルストーンになりそうだと思い、

思い浮かぶまま書き出してみたい。

  

 

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私の中に、依存心と共に、本当はいて欲しかった自立の心が育てられず、

それでも大人になって生きていかなければいけなかった私は、

私の中に唯一ある、傷ついた依存心を、引っ張って伸ばして、膨らまし叩き上げ、時に押し付けるような形でこき使い、痛めつけて、その依存心に頑張らせて、私は生きてきた。

 

それは辛かったろう、歯を食いしばって悔しかったろう。苦しかったろう。

そしてそんな風に生きてきた依存心は、私にはどんなに無様でカッコ悪く、無力でみっともない存在に思え、感じてたろうか。

自分を助けてくれるものが誰もいない。本来いて欲しい、いてくれてるはず、育ってくれてるはずの私を助ける自立心がいない。どんなに孤独だったろう。それでも私は私の依存心は頑張ってきたんだ。これまで、ずっと。

 

この辛さが健全な自立心が育ってくれてないからだとも思わず、気づかず。

 

 

私の心の世界のイメージを描いてみた

 

 

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これまでは、今、自分がどんな風に感じてて、どうしてこうなったか』、、そんな説明ができないと、気になって気持ち悪くて仕方なかった。

まぁ今も気になってモゾモゾする。

でも仕方ない。どうしてもよくわからないけど、今までの自分では説明できない感覚がある。

自己満足で私以外どこにも迷惑のかかることのない世界の話だけど。

 

 

感覚や感情を押し潰して生きてきた私は、

理屈で“自分”を説明することで、そしてその理屈で自分をなぞることで、

自分の感覚を、自分の輪郭を確認してきたのかなと、そしてそれが自分を確立して支えてきてたのかなと、

これもまた理屈だけど、そんな風に今、思う。

 

 

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この“全部が説明できないと嫌” “どんな状況にあるのか把握できてないと落ち着かない(コントロール欲求)”を自分が持っている理由も、正直よくわからない。

そして、そこにもモヤモヤしてるんだけどね。

だから私は、心の“なんでなんだろ?”が嫌いじゃないんだろうな。

 

 

 

これがまた、これからの私を助け、応援する一助となることを望みつつ!

 

投稿者プロフィール

心理カウンセラー 斎藤朝海
心理カウンセラーで作家の根本裕幸さんのお弟子です。
よろしくお願いします。
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