何かから抜け出る時、抜け出す時

息子が家にいなくなって、私はこれまでしていたゲームをすること、これまでのようにダラダラと時間を垂れ流していると感じながら過ごすことが怖く感じるようになってきた、そんな1460日計画の5日目あたりのメモ。

  

私はずっとゲームが止められなかった。正確に言うなら今もまだゲームをしている。今のところすぐ止めよう(止めなきゃ)とは思っていないのだけど。

でも今まではゲームをやっている時、矛盾しているようだけれど、苦しかったし虚しくてもがいているようだった。止めようとか止めたほうがいいとか、無駄なことをしているとか、するべきことが他にあるのにとか、するべきことをしていないとか。そしてこんな自分は最悪だとすごく自分を責めてもいた。すごく罪悪感を持っていた。

止めたくてもなぜかどうしてもついつい続けてしまって、ゲームを止めることが、終わらせることができなくて。たびたび時間を見ては、そのたびに改めて強く自分を責める。そしてこのキリを、このケリをどうつけようかと、おかしなことだが、またそこから終わりを模索する。ほんとに終わらせる気があったのかと今問うなら、なかったのかもしれないけど、ゲームをしたくて始めたのは自分で、誰の命令を受けているわけでもないけど、ゲームをしている時間はどこか安心でありつつ虚しく、何となく苦しい気さえしてた。でもそのキリをつけたいケリをつけたいと言うのは、実はゲームそのものではなくて、私の心の中にある自分でどうしようもなく、扱い切れない抱え切れない何か、不安や嫌悪感や無力感、無価値感、そしてそんな自分を感じたくない、そんな思いだったのかもしれないと今、思う。

  

今私は、ゲームでなくてマンガを読んでいる。あるマンガを読み始めた。

主人公の境遇に、自分を少し重ねて、またそれがあり得ない場面設定であることにも心惹かれたのだ。

読んでいて、心がきゅーっと掴まれて、憧れに似た光に引っ張られるような心地になる場面が幾度も訪れて。

あぁ私は、この非生産的な時間、今まで自分を責める気持ちになっていたこの時間、私はこの心惹かれる感覚や喜び、時には“やったー”という気持ちを垣間感じたかったのかもしれない。そしてそれは私にとって幸せな心地で、本当に感じたかった本質のところのような気がしている。

  

私がこれまでしてたことをゲーム依存と表現するなら、止められない自分を強く責めていながら、止めようとすることはとても難しかったのではないかなと思う。そして私がハマっているのは、本来何を求めているのか?本当に感じたい本質的な感覚や感情は何か?を想像していくのは難しいのだけど、それを感じていくこと、知っていくことは、止めたくて止められないことへ繋がるのではないかと思う。

思い返してみれば、生きていて何もしていない時に私が感じる(感じてくる)のは、喜びでもわくわくでも安心でもなく(むしろそれらは、一切可能性として感じてこれず)、虚しさであり、自分責めであり、苦しさだった気がする。

ゲームをしている時、ゲームに没頭しているのでも何も考えていないのでもなくて、自分を責める、また自分の無価値感、無力感、虚無感を感じている、どうしてもずっと浮かんで感じてきてしまうところから逃げたい、それを少しでもシャットアウトし、感じずにいたかったのだと思う。

もう一度言うが、考えていないのではなく、自分を責め続ける思考、その思いや考えていることを、寧ろ止めたいのだ。

だからその自分責めを、苦しさを、ぐるぐる止まらない負の思考を、ゲームをしている時は麻痺させ、忘れたかのように思考が消えるような感覚に、一種の安心感を得ていたとも言えるのかもしれない。

そう、怠惰だと自分は責めないで。

私の心のうちの感覚は私しか知らない。

それは、私の答えを私が確かに持っている、私の中にあるということでもあるのだと思う。

そして、でも。

その苦しさから、虚しさから抜け出たいと思った時には、まずは今の自分の心のいる場所を知り、感じるところから前に進めるのかもしれない。

そんな風に思った。

  

しかし、ノンフィクションや啓発本のようなもの以外を読むのは本当に何年振りだろう‥。

コーヒー派の私だけど、もしかして紅茶派に変わるってことがあれば、それはそれだけハマったってことかな。

  

人を動かすのは『感情・感覚』

また、人が動けないのも『感情・感覚』なんじゃないかな。

動けない時、私はどんな感情・感覚を感じているのか?それが答えを教えてくれる、そこを超える道標になる。

  

投稿者プロフィール

心理カウンセラー 斎藤朝海
心理カウンセラーで作家の根本裕幸さんのお弟子です。
よろしくお願いします。
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