私に優しく。
私が私を大切にする。
私が私の機嫌を取る。
私の人生の機嫌は私が取って生きる。
“私の時間”の機嫌は私が作る。
そう思って過ごしてる。
そう思っているけど。
なかなか難しい。
先日、スーパーの果物売り場前。
山形産のさくらんぼを前にして、私は悩んでいた。
買うべきか、買わざるべきか。
だって、いつも買うのの倍ほどの値段。
果物は絶対に食べなくてはならないものでもない。
なんていう、いつもの思考をまずは頭の中で流して。
私はこれを食べたいのか?
食べたいから悩んでいるのである、愚問だ。
なぜ買うのをためらう?
自分を甘やかすことも大切なんじゃないの?
自分のしたいこと、心地良いことをしていくこと、それを探していくことも、今の私に必要なんじゃないの?
買わずに帰って、こんな私だからこんなもんだ‥なんて思うんじゃない?
こんな私が買って帰って、食べる時に罪悪感が湧いてこない?
「良いお値段するわね」
ふいに横から声が聞こえた。
カートを引いた女性が、親しみやすい笑顔で立っておられた。
私と同じく、さくらんぼを見ておられる。
「美味しそうですね」と、私も答えた。
するとその女性は、少し迷ったような間のあと、
「今日は孫の誕生日なの。今から来るから、いいわ買うわ!」
とおっしゃって、1パックをカゴに入れて行かれた。
私はぼんやりと浮かぶ、その幸せな余韻に浸りながら、ふと思った。
「朝海ちゃん(←私です)に食べさせてあげよう」
なんだか初めての感覚だった。
そしてそれは、何となく私が幸せになる感覚だった。
私は思った。
あぁ、もしかしてこれが、
《自分で自分の機嫌を取る》(という感覚)
これが、
《ご褒美の本当の(?)受け取り方》だったのかな、と。
居心地の良さを探して、
居心地良さを感じようとして、
自分を大切にしようとして、
そして私は、
今までは我慢していたこと、
本当はしたかったこと、
を少しずつするようになってきてて。
で、した後に感じること、したかったことをしてる最中に感じてることは、
何だか“やってやったぞ!”
“禁止事項を破ったぞ!”
って感じ。
その時、心は固かった。
ここまでしかダメ!
そんなことしちゃダメ!
そんな、枠を『破ること』が目的になってたのかな。
禁止事項を破ってまでやった、やりたかったことは、私の心にも体にも全く沁みてこなかった。
私の全身を何かでコーティングした上から、気持ちのよいクリームやアロマをかけてたような感じ?
そこには、『私は、“私のしたいこと”をやったんだぞ!』という事実、、、
いや、『私が私に、(したかったのに)禁止していたことをやめてやったぞ!』という事実があったのだけど、
全く私はそれを楽しめてなかったかもしれない。
帰ってからさくらんぼを食べている時、
そこには、さくらんぼを“あげている私”と、“ただ美味しく嬉しそうに食べてる、どこか幼なげな私”がいた気がする。
私は今日も、悩んだ末にカフェに来て、勉強を始める前にこのブログを書いている。
悩んでいた理由は、今日も『勉強など、カフェに行かずとも出来るであろう!』からの、
『これは私が本当にしたいことなのか?』
『これをした時に、私はどう感じるんだろう?』ということ。
何十年も蔑(ないがし)ろにしてきた、『小さい私』。
それは、私が本当に『本当は望んでいることを感じる心』
その存在を、その感覚を、自分のものなのに自分の感覚として取り戻して感じられるようになるには、まだ時間がかかりそうだ。
望むところ。
それだけの時間、蔑(ないがし)ろにしてきた感覚。
忘れ去られ、その存在すらないことになっていたような思い。
“それだけ”の時間に思いを寄せて、付き合っていこうじゃないの。
“それ”は、それだけの大切な存在だから。
投稿者プロフィール
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心理カウンセラーで作家の根本裕幸さんのお弟子です。
よろしくお願いします。
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