前回書いた話の続きが書けないまま、年も明けた。
その、続きではないけど、タイトルに書いてみたように1週間ほど思いつくままに書いてみようと思う。
誰のために生きてきたんだろう。
少なくとも自分の気持ちとしては、自分のためとは言えないでずっと生きてきた。
こんなことが思い浮かぶのは、子どもの自立が近づいてきているから。
子どもと離れて暮らす生活が始まるんだと、ずっとここ一年、自分に言い聞かせてきたから。
寂しいから。
で、
じゃあ誰のために?誰のためのつもりだった?と自分に問うてみると、子どもを思い浮かべるけど、
子どもに“あなたのために私は生きてきたのよ”、そんな重いことを言いたくは無いし、それは何か思っている気持ちとは違う気がする。
人は生きていくときに“自分はこうする” “自分はこれを選ぶ” “自分がこう決めた” “自分がこう感じる” そんなふうに、何か自分の芯になる錨(いかり)のようなものを、
自分の中に、自分の心に、錨を下ろして生きていくようなものなのだと思う。
その錨をおろすこと。自分の軸としての“私がこうする” “私はこう思う”という私の錨。私が私として生きるための軸であり、還る芯のところ。
その私の錨を、私は子どもところに乗せて、勝手に下ろして生きてきたんだなぁと思う。
子どもがいない生活を想像する時、“私の心”がどこにあるんだかよくわからなくなるんだなぁ。
私は誰のために生きているんだろう。
そんな自分を感じてる。
きっと悪くない。
おやすみなさい。
投稿者プロフィール
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心理カウンセラーで作家の根本裕幸さんのお弟子です。
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